すいません、お先に射精してもよろしいですか?

俺の名前は清隆、南原清隆。47歳。地方の会社に務めるごくありふれたサラリーマンだ。


今朝もいつも通り出社し、自分のデスクでパソコンと向かい合ってるのだが、どうも落ち着かない。胸がサワサワするというか、股間がムズムズするというか、なんとも言えない高揚感に駆られている。


しまった、昨日してくればよかった…。


今更昨日の自分を責めても、このざわめき立つ気持ちは抑えられない。


ふと向かいに座る、かおりちゃんに目を向けてみた。最近入ったばかりの子だ。

まくり上げた袖から伸びる細い腕。忙しそうに動く色白な指先。毛先がカールされた綺麗な髪。艶やかな唇。緩めの胸元。


ダメだ。集中出来ない。


俺は視線をパソコンに戻し1つの決断を自分に下した。


抜こう。


そう決めたや否や、その後の自分は早かった。気がつくと部長の目の前に立っていた。許可が必要だ、そう感じていた。


初老を感じさせる白髪の混じった髪を無造作に流し、銀フレームの眼鏡を掛け、たるんだ頬周りはいつもの頼りない部長だ。椅子にもたれかかり、たるんだお腹を擦りながら資料に目を通していた。


「ぶ、部長」


興奮しているのか声が上ずった。

部長は資料から目を離しこちらを向く。目が合う。

いつもの気だるい声で部長が答える。


「南原くんか、どうした」


とめどなく額から汗が流れてくる。部屋のクーラーは、部長に合わせて25℃設定のはずなのに。背中にも汗が流れるのを感じる。緊張しているのか。

やっぱりやめようか。いえ、なんでもありません、と言って180度回転して自分のデスクに戻れば怖い思いをしなくて済む。そうだ、もうやめよう。

そう思った、が。そう思ったのだ、確かに。しかし、すんでのところで止めた。やめるということを止めた。




俺は親友の内村のことを思い出していた。彼とは高校の頃よく遊んだ。ある夏の暑い日、山にセミを取りに行った帰り道、内村が唐突に語り始めた。


「なあ、ナンチャン。人ってどういう時、勇気を出すと思う。人が困ってる時?自分が切羽詰った時?好きな人ができた時?どれもちょっと違う。正解は、自分の心が揺れた時。だから勇気を出すべき時は、自分の心が知ってる。自分の心に正直になってみな。自然と勇気が湧いてくるから

そう言って、内村は得意げと照れが入り交じった顔で笑った。


ありがとう、ウッチャン

勇気が出たよ。




半開きだった口を開き、心からの声を出した。


「すいません、お先に射精してもよろしいですか」


時が止まった、気がした。しかし、それでも時間はゆっくり確実に動いていた。


部長は、椅子に深く座り直し、両肘を肘掛に置き指を胸の前で組み、たるんだ顎を引き、目を伏せた。

そして、ゆっくり顔を上げこちらを見た。

しかし、その顔はさっきまでの部長では無かった。幾つもの死線をくぐり抜けてきた軍人を思わせる精悍たる顔つき。目の奥の黒さが際立つ、全てを見透かすような目つき。背後にはオーラが揺らめいている。

真一文字に結んだ口が開き、ドスの効いた声が飛んでくる。


「ああ、構わん」


背筋がゾクッとする。寒気がした。

開いてはいけない扉を開けてしまったのではないか、そう思った。

足がガクガクする。立っているのが精一杯だ。体が動かない。まるで首から分断されているようだ。頭がボーッとする。目の前が白くなる。意識が遠のくようだ。

部長がまだこっちを見ている。口元が動く。何かを喋っている。耳に意識を集中させ、何とか聞き取った。


「どうした、早く行かないのか」


意識が戻ってくる。そうだ、早く行かなくてはいけない。自分の心に正直になるんだ。勇気が湧いてきた。

部長にお辞儀をし、震える足に力を入れ駆け出した。

オフィスから出て、すぐ横のトイレに入る。一番奥の個室の扉を開き、中に入る。鍵を閉め、カバーを開け、ズボンを降ろし、便座に座る。

いつもは便座の冷たさにイラつくのだが、今の興奮した体には丁度いい。


上着のポケットからスマホを取り出し、ブックマークを開く。以前から目星を付けていた動画に決めた。

オフィスものだ。

極限まで高ぶった感情、場所はオフィスのトイレ、見るのもオフィスもの。


完璧だ。

これ以上ない環境。ムスコも今か今かと期待を膨らませ、こちらを向いている。

あとはするだけだ。


が、ある重大なミスを犯した事に気がついた。イヤホンを忘れたのだ。朝音楽を聴いてきて、そのままカバンに閉まってしまったのだ。


くそっ。ここまでなのか…。いや、違う。

俺は、俺は退かぬ!自分の心に正直になるんだ。勇気を持つんだ。決めたんだ、俺は!


うおおおおぉォォオオオオオオオオ!!!!!!


心の叫びと共に音量をマックスに上げる。

画面を横を倒す。

WiFiが繋がってなくても気にしない。

始まる動画。

すっ飛ばすインタビュー。

前かがみになる姿勢。

激しく動く右手。

左手には全てを受け止めるためのトイレットペーパー。

額に流れる汗。

高まる興奮。

震えるカラダ。

止まる右手。

湿り気を感じる左手。

全身を駆ける快感。


何が起こっていたのか、分からない。気がつくと俺は、清々しい達成感を覚えていた。気持ちがいい、晴れ晴れとしている。まるで北欧の朝だ。これから顔を洗って、朝ごはんにミルクに浸したコーンフレークを食べるようだ。


右手の中で何かが萎んだ気がした。

スマホの中では女性の顔にミルクがかけられていた。




オフィスに戻り、席につく。部長はいつもの気だるい感じで椅子にもたれかかりながら、資料を読んでいた。

オフィスがざわついているようだが、気にしない。周りからの視線が痛いが、これも気にしない。

向かいのかおりちゃんと目が合った。軽蔑するような、ゴミを見るかのような目をしていた。なぜだろう。


時刻は朝の9時半。今日は月曜日。

周りの空気とは裏腹に、なぜだか頑張れる気がした。